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★最上義康(もがみ よしやす)

最上家

詳しい情報は下に記載してます!

本サイトではゲーム『信長の野望』シリーズで登録武将(新武将)として作成・登場させるのにおすすめの戦国武将を紹介しています。

是非本サイトで紹介している登録武将を作成して『信長の野望』シリーズのゲームをより楽しんでもらえたら嬉しいです!

特性や特徴は「謀略“系”」など“○○系”という表記をしていますので、作成の際は武将の情報や逸話を元にご自身で付けたい特性を選んでいただけたらと思います。

★最上義康(もがみ よしやす)

基本情報

  • 生没:1575~1611(討死)(37歳)
  • 所在:山形城
  • 主家:最上家
  • 親交:最上義光(父)、清水義親(弟)、最上家親(弟)、伊達政宗(従兄弟)
  • 嫌悪:徳川家康
  • 野望:低
  • 主義:中道

能力

  • 統率:72
  • 武勇:69
  • 知略:68
  • 政務:71

特性

  • 戦法:急襲
  • 特性:能弁(交渉系)、反攻(攻撃系)
  • 苦手:―

人物概要

最上義光の長男。父と同じく優秀でその上優しい性格であったとされる。従兄弟の伊達政宗とも仲が良かった。関ヶ原の戦い後に上杉領を総大将として攻略した。徳川家の調略に合い、父との関係を裂かれ、跡継ぎになれず、弟の家親が後を継いだ。

その他情報・逸話

  • 天正3年(1575年)、山形城・最上義光の長男として生まれる。
  • 最上氏を継ぐにたる英雄の資質で、心優しかったと伝わる。
  • 天正14年(1586年)、鮭延城の回復を目指して小野寺義道が侵攻すると最上義光と共に迎え撃ち、初戦は敗退してしまう。
  • その後義康が対小野寺氏の総大将を務めた。
  • 義康は奮戦し、また楯岡満茂・鮭延秀綱の奮闘もあり小野寺氏を撤退へ追いやった
  • 文禄4年(1595年)父・義光が豊臣秀次の謀叛に荷担したとして豊臣秀吉から嫌疑をかけられた際は、赦免を願い祈祷を行った
  • 秀次事件で娘の駒姫を失って豊臣政権との人的つながりを喪失した義光が義康を大坂に出仕させて、豊臣秀頼に近侍させた。
  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは山形で上杉家と戦った。
  • 従兄弟の伊達政宗の元に使者として赴き、留守政景による援軍を引き出すことに成功
  • 上杉勢から射撃を受け窮地に陥った父を救っている。
  • 上杉本隊が米沢へ撤退すると総大将を任され、慶長6年(1601年)までに上杉領庄内の全域を攻略した。
  • 慶長6年(1601年)から、父・義光が病の悪化で政務が行えなくなり、義康がという主の権限を与えられていた
  • この頃までは父義光との仲は良好であったが、長年の敵である伊達政宗と義康の仲が良く徳川家康に警戒されていたことや、徳川家康が弟の最上家親を気に入っており最上家の跡継ぎにさせたい思いから、父との仲を裂く攻略がなされ手しまう。
  • 慶長7年(1602年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、家康から「そのような子は切腹させるがよい」と述べたとされる
  • その後義光から高野山に退去するように伝えられる
  • 高野山へ向かう途中、矢と鉄砲を射かけられ、義康も撃たれ自刃した。
  • 義光は義康の首を見て涙し、義光山常念寺を義康の菩提寺とし、手厚く葬った。
  • 息子の死後、義光は病がちとなった

参考値

紹介した登録武将と関係があったとされる武将のゲーム上での数値を紹介しておきます。

数値は『信長の野望 新生』での数値を記載してます。なので『信長の野望 新生』で登場していない武将は対象としてません。

  • 最上義光 :統87.武85.知88.政87
  • 最上家親 :統46.武52.知34.政50
  • 鮭延秀綱 :統71.武61.知73.政62
  • 清水義親 :統48.武42.知49.政46
  • 小野寺義道:統61.武61.知28.政24
  • 楯岡満茂 :統63.武60.知56.政38
  • 留守政景 :統64.武66.知57.政64
  • 伊達政宗 :統94.武86.知87.政96

参考資料

最上義康(Wikipedia)

その他の最上家おすすめ登録武将

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